ケーススタディ 職人を旅する 多々納 真




























































































































職人を旅する
多々納 真 Tatano Shin
陶工
島根県斐伊町 出西窯


 民藝運動の血が色濃く残る出西窯である。昭和22年、戦後まもなくのことであるが、公務員、国鉄職員、農家の二男、三男と、焼き物には無縁の5人が、牛舎を改良して地元の陶土と釉薬で器を作り始めた話はよく知られている。その後、島根安来市出身の河合寛次郎の縁で、益子の浜田庄司の窯で民藝の志と技を学び、柳宗悦やバーナード・リーチ、鳥取民藝館の吉田璋也など民藝運動の祖から無名性、用の美を説かれたのである。出西窯は民藝運動の忠実な継承者としていまも黙々と日用使いの器をつくり続けている。ここでは、柳宗理のデザインした器もシリーズ化され、窯の定番品は雑誌などでも人気が高い。    
 出西窯の器は、注文しても数か月待ちのものが多い。電気やガスの窯ではなく旧来の登り窯で作陶するために、在庫がなくなった場合、年八回、火入れのタイミングが会わないと商品が整わないのである。こんなに評判が高いのであれば、量産化すれば良いのだがそうはいかない。郷土の土や釉など原料からつくり出し、手仕事に徹し、実用品を数多く安価につくるという窯の基本的な考え方がある。焼き物を志す人は数多くいるが、最初は、みな作家、芸術家をめざす。出西窯のように無名の陶工をめざすという者はいないのである。          


 八雲立つ出雲。古事記に詠まれる神話の国である。私が学生の頃は遙かなる国であった。ブルートレインと呼ばれた寝台特急出雲号で行くか、京都まで新幹線、さらに山陰本線で城之崎にまわり、日本海沿いに米子から松江、出雲に至るという遠い国であった。今回、初の出雲行きは、羽田から出雲空港を目指すという空路を選択した。搭乗している時間は約1時間なので、やはり時間を優先すると空路を選ぶことになる。しかし、日本海をゆったりと走る山陰本線も魅力がある。特に個人的ではあるが、夢千代日記で知られた湯村温泉や、風が吹くとさぞ恐ろしいだろう余部(あまるべ)鉄橋はぜひ渡ってみたいものである。鳥取砂丘もみたいし、植田正治写真美術館にも行きたいし、境港のゲゲゲの鬼太郎もみたいなど、次々と欲が出てくる。そんな煩悩を振り払って、今回はスピード重視で空路、一気に出雲に向かった。
 朝の便で羽田を飛び立った、快晴。この空路は羽田から日本海に向かって飛ぶために、ほぼ富士山の真上を通過する。飛び立つとすぐに富士が目に入った。天候は快晴ということで期待していたが、期待に違わず優美な姿をみせてくれた。あまりにもきまり過ぎて絵になる姿をみてボーっとしている自分がいるのだが、我にかえって急いで鞄からカメラを取り出した。結局、日本人は富士には弱いのだ。葛飾北斎の富岳三十六景をきらいという人はいないと思う。さしずめ、この日の富士は「蒼富士」という感じだろうか。そして、この日は、もう一つの富士が見えるはずだ。「伯耆(ほうき)富士」と呼ばれる大山(だいせん)である。飛び上がってから小一時間、宍道湖や日本海をさえぎるように、伯耆富士の姿が目に入り、やがて宍道湖が見えてきた。飛行機は宍道湖を越えて一度、完全に日本海に出てしまった。海に出たところで大きく左に旋回して宍道湖を巻くように出雲空港の滑走路に向かった。山陰地方は地図でしか見たことがないので、大山から宍道湖、日本海と大きく変わる山陰の景色を体感できたのは幸せなことであった。


 出雲空港は出雲大社にちなんで「出雲縁結び空港」とよばれているのだ。ちなみに米子空港から松江に入るルートも考えたが、米子空港はゲゲゲの鬼太郎にちなんで「米子、鬼太郎空港」で鳥取空港は名探偵コナン「鳥取砂丘コナン空港」と呼ばれているそうだ。山陰の人々はなかなかノリがいいではないかと見直した訳である。出雲大社を後にして松江に向かう。一畑北松江線は、右手にゆったりとした宍道湖を望みながら走り、期待を裏切らない車窓風景をみせてくれた。この地を訪れた人は、ぜひ乗ってほしいものである。宍道湖は淡水と海水が入り混じる汽水湖だ。「スズキ、モロゲエビ、ウナギ、アマサギ、シラウオ、コイ、シジミ」の宍道湖七珍とよばれる食材は淡水、海水の入り混じるところに生息する。かつて、一度、宍道湖は、長良川や有明海のような河口堰がつくられたが、水質が悪化したために河口堰は開聞され、その後は堰が開けられたままである。今は水質が安定して宍道湖七珍にとっては幸せな状態にあり、使われない河口堰が負の土木遺産として無残に残されている。開門してから時間が経過しているので、適度にエイジングしていて、これはこれで景観に馴染んでいる風情はあるが、しかし、長良川、有明海もしかりである、なぜ人は愚かしく同じことを繰り返すのか。自然を破壊するとその代償は工事の事業費をはるかに上回るコストになるのにやめようとしない。なぜ、宍道湖の河口堰のような教訓を活かせないのだろうとつくづく考えてしまった。
 それにしても、初めての山陰地方であり、見たいところがたくさんあるが、今日は松江市内を歩ける範囲に限るということで、頭の中では松江のシンボルである松江城に向かい、そのあと小泉八雲が住んでいた住宅。そして、宍道湖畔に建てられた菊竹清訓の島根県立美術館で締めようと考えていた。無論、今回の目的は出西窯を訪ねることであるが、その文化的背景を知ることも大切。松江の食を経験することもしかり。などと自部の観光客気分を正当化するのであった。


 松江城に到着。松江城の中にある資料館には、城の歴史が展示されていた。松江城は戦国大名の堀尾吉晴が築城したもので、現存する天守閣は江戸時代初期に建てられたものがそのまま残されている。国宝にまでなったこの城は、明治時代に廃藩置県で放置され廃墟化して、取り壊される寸前までになったようだ。明治維新で新しい管理体制となり、松江城は解体が決まり荒れ果てたボロ城ということで、材木や鉄を求める解体業者が当時180円(米60表の値段だそうな)で落札し、いよいよ解体間際までになった。その時、出東村の豪農であった勝部本右衛門と旧松江藩士の高城権八が名乗りをあげ城を買い戻して修理したという。えらいなー。この人達がいなかったら松江市には城がなく石垣だけが残るそれはさびしい状況であったにちがいない。松江の松平氏は七代目の松平不昧公(ふまいこう)が名君であったという。不昧公は名高い茶人であり産業振興、治水新田開でつぶれかけた藩の財政を再建したということで、松江の人に慕われている。今でも、松江は和菓子がおいしいところで、茶会も多く開かれているという。なんと、タクシーの運転手さんも、休息の時に、本格的にお茶をたてて飲み、市内の公民館では定期的に茶会が開かれてると聞いておどろいたのであった。松江城の天守閣から宍道湖方面を眺めると、なにか深海魚のような平たくつぶれたような建物が光っている。あれが、菊竹請訓の島根県立美術館だ。宍道湖の夕日が眺められるという。目のように黒く見えるところが、夕日の展望台で特等席が用意されている。時間の関係で残念ながら夕日を眺めることはかなわなかったが、この目の部分にはゆったりとした椅子が用意されていて、うとうとしながら宍道湖の夕日を眺めることができるようになっていた。その特等席にすわると、宍道湖の遠くまで見渡すことができて、なんとも贅沢な気分になるという。松江を訪れる人にはぜったいにお勧めのスポットである。今日の宿は宍道湖岸にあり、窓からは宍道湖を臨むことができ、たそがれ時でもあり松江の雰囲気にひたっていた。明日の朝はいよいよ出西窯に向かうのであるが、旅のついでといっては恐縮であるが、出雲和紙の工房にも立ち寄る予定である。


 出雲和紙の人間国宝である安部榮四郎は民藝運動の柳宗悦やバーナード・リーチ、芹沢銈介、鳥取民芸館の吉田璋也等との交流があり、多くの民藝運動に参加した人々が出雲民藝紙の工房を訪れている。この日は、レンタカーを借りて松江から少しはずれた八雲町の工房へ向かった。和紙工房と隣接する安部榮四郎記念館には、島根県における民藝運動の歴史を感ずることができる展示が数多く、中でも棟方志功の作品が多いのには驚かされた。和紙は版画家には欠かすことのできない素材である。棟方志功の収蔵品は、志功が無名の時代、出雲に逗留していた時にこの安倍榮四郎の工房に長く滞在して作品を描いたものがそのまま残されているという。名が売れてからも書簡のやりとりが頻繁であり、棟方志功特有の文字で書かれたハガキなどの書簡が数多く並べられていた。安部榮四郎との交流は心地良く、たびたび、この工房に長逗留していたとのことあった。榮四郎と志功の交流が写された写真が展示されていたが、その親しさがよく表れた写真である。記念館から数分のところに安部榮四郎が紙を漉いていた出雲和紙工房があった、出雲民藝紙の工房は、現在、安部榮四郎の孫である信一郎、紀正兄弟が技術を伝承している、次男の紀正氏が紫の色が入った紙を漉いていた。工房の看板は、安部榮四郎の著作の装丁を行い、出雲民芸館や出西窯の文字を手掛け出雲の民藝と深くかかわる芹沢銈介のものだろうか、IZUMU HAND = MADE PAPERと書かれていて、いずれにしても趣のある文字なので民藝関係者が書いたものかもしれない。安部榮四郎が復活させた雁皮紙(がんびし)は、柳宗悦が出雲を訪れて安部榮四郎にこの雁皮紙をみせられた時に、日本ですでに消えてしまった雁皮紙を探し求めていた柳宗悦が、これぞ日本の紙だ!と激賞して、たいへんな喜びようであったという逸話もある。実際、柳宗悦、バーナードリーチや棟方志功などは自分の作品にこの紙を使用していた。


 さて、もっとゆっくりとみていたかったが、ここから、出雲市にある出西窯までは2時間ほどかかるということで先を急いだ。斐伊川沿いにある出西窯についた時は午後3時をまわり夕方に近づいていた。斐伊川は出雲平野を流れて宍道湖の西側にある出雲空港の脇を河口とする一級河川である。斐伊川にはヤマタノオロチ伝説があり、川そのものが氾濫して人々を苦しめる大蛇であるとか。神話の国にふさわしい神秘的な川なのである。出西窯は、登り窯を維持している古い窯と聞いていたので建物がまったく新しいイメージで驚いた。工房とショップが分かれていて、左側には大型バスが入れるほどの大きな駐車場もある。出西窯の文字は芹沢銈介の作である。出西窯の師の一人である浜田庄司が商標は芹沢に頼むべきと進言して、今も使われている商標はすべて芹沢銈介の作となっている。出西窯の創設メンバーは益子の浜田庄司の窯に弟子入りしている。そして、京都に窯を持つ島根県安来市の出身、河井寛次郎も出雲の出西窯に出向いて作陶の指導をしている。今でも毎日の窯の仕事始めに全員で復唱しているのは「仕事が仕事をしています。仕事は毎日元気です」で知られた河井寛次郎の「仕事のうた」であるという。最後の言葉は「苦しいことは仕事にまかせ。さあさ吾等は楽しみましょう」でしめくくられているが、これは、まさに無名の陶工を目指す出西窯の心粋だなあと思った。工房の入り口には窯に入る前の平皿などが干されている。案内をしてくれたのは、多々納真さんで創設メンバーの二代目になる。工房に入ると、まず、働いている陶工が若いことに驚かされる。かなり多くの伝統工芸の産地を訪れているが、後継者不足で高齢化しているのが常である。産地の職人さんがよく言うのは、「後継者問題は問題ではない。儲かれば給料が払えて若い人も雇えるし、息子もこれなら納得して後を継ぐ」ということなのだ。利益を出せる伝統工芸でなければならない。特に、今の若者は、伝統工芸で仕事をしたいと望む人材が多い。しかし、一人雇うのに経費を入れて一千万円の利益が出ないと給料が払えないともいわれている。従って、若者を受け入れられない、受け入れられないから生産性が上がらず利益が出ないという「負のスパイラル」に陥っている。工房の裏手には、原料の養生された粘土が棚で出番を待っていた。土は宍道湖に流れ込む斐伊川が上流から運んで堆積したものである。この地に窯を開いたのはこの土があるからということと、出西窯が得意とする呉須釉などの釉薬もみずから精製して窯のオリジナリティを守り続けている。ということで、出西窯は、もともと原料となる粘土や酸化鉄を含む釉薬の原料が地元で得られるという地の利があった。窯の創設者の眼は確かであったということだ。そして、工房内の窯場に案内された。ここでは、創設当時から斜面の地形を利用した登り窯を使っている。量産している他の陶芸産地のようなガス窯や電気窯は使わない。登り窯は、燃焼した熱を対流させ焼成時に一定に高温を維持するよう工夫されている。薪を使うので当然のことであるが火の加減がたいへん難しい。従って、量産といっても焼ける数が限られていて人気のある出西窯の商品はいつもユーザーが待ちの状況である。売れているからどんどん作ればいいのに、と思うのであるが、かたくなに、登り窯をまもり続けているということなのだ。今、人気のブランディング商品とはえらい違いである。これも出西窯ではあたりまえのことというが、はたから見ればたいへんなこだわりである。


 次に案内されたのは出西窯の山側、敷地内に移築された鳥取民藝館の建物であった。この建物は元鳥取民藝美術館だった建物2棟を譲り受け、吉田璋也記念館および研修館と名付け、出西窯陶器の見本や参考品が収蔵されている。非公開ということであるが、お願いして見学させていただいた。 吉田璋也記念館は、鳥取市で民藝運動を支援した吉田璋也の設計による木造 二階建てである、一階には茶室などがあり、微笑んだ吉田氏の写真が印象的である。二階には出西窯の創業時からの優品が収蔵されていた。研修館は土蔵で鳥取民藝美術館の一部として使われていたという。多々納さんの説明では「現在は出西窯の参考品を収蔵し、陶工が商品を製作する際のお手本となる品物が保管されています」ということであった。はじめは聞き流していたが、その、「お手本となる品物」を見て、なにか、ただならぬものを感じた。出西窯の定番商品がすべてそろっているが、一つ一つの完成度が高く、今ふうにいうと、存在感が「はんぱはない」のである。博物館に持って行って、歴史的な名品のとなりに置いても決して見劣りはしないであろう。そう、思わせるすばらしさであり、それがせいぞろいしているので目がくらくらしてしまうのを止められないという眺めである。これが出西窯の実力だ。と感じ入っていた。そして、そのお手本の選定について話を聞いて驚いた。


 出西窯には、外部に民藝の精神を継承し作陶について常に意見を求める数名の識者がいて、数年に一度、集まり、出西窯の陶工が作る商品を評価する場を設けている。そこに、現役の陶工たちが、自分がここ数年で最もできが良いと考える商品を持ち込み、在収蔵している窯のベスト・サンプルと比較するそうである。その時は、窯の陶工も全員が集まり意見を述べるそうだ。そして、現役の陶工のものと、ベスト・サンプルとどちらが良いか選択する。もし、現在の陶工のものが上と評価されたら、これまでのベストのものははずされて入れ替えとなるのだ。 それを聞いた時に、私のひたいには少し汗がにじんでいたかもしれない。「無名の陶工」たちの、なんという厳しさ。しかし、結果として、毎回、ほとんどが過去のベストを超えるまでの出来には至らないという「無名の陶工」を目指す出西窯、恐るべしである。若い陶工にとって、自分の作ったものがこの棚にのるということが職人の誇りであり、目標でもあろう。しかし、すごい自己評価システムを作り上げたものだ。日々、復唱するという「仕事が、仕事をしている・・・仕事は毎日元気・・・仕事の一番すきなのはくるしむ事がすきなのだ。苦しいことは仕事にまかせ。さあさ吾等は楽しみましょう」 という言葉を思い出した。そして、この場に来られてよかったと思った。


ー(影山)

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