ケーススタディ 職人を旅する 新井 教央















































































































































職人を旅する
新井 教央 Arai Norio  
秩父銘仙織元
埼玉県秩父市 新啓織物

 秩父銘仙は大正時代から昭和初期にかけて、圧倒的な勢いで生産された絹織物である。絹織物といっても安価で軽く丈夫な普段着として普及したもので、今でいえばユニクロのようなものである。銘仙は、足利、桐生、伊勢崎、秩父、八王子の関東五産地で生産された。特色は、色が華やか柄が大きくてモダンデザインの着物。女学校の制服からカフェの女給さんのような働く女性、家事をこなす主婦などに支持されて、昭和5年の最盛期には秩父だけでも1,200万反の生産量であった。その隆盛がすごかっただけに、着物を着なくなった現在の極端な衰退は産地の疲弊をまねき、現在、生産を続けている秩父の産地でも技術の継承については危機的な状況にある。

           
横浜三渓園の展示会は趣があっていい
 
 横浜の本牧にある三溪園は実業家である原三本名原富太郎が自邸を兼ねてつくりあげた建築庭園である。園内の建物は京都や紀州などから移築した古い建造物で構成されている。三溪の自邸であった鶴翔閣は明治後期に建てられたもので、その奥にある三溪夫妻の隠居所である数寄屋造りの白雲邸と共に横浜市の有形文化財に指定されている。

 
今は一般公開されて、桜の季節から紅葉の季節など多くの人が訪れる。特に海外からの要人や文化人を招く時などには最適な施設である。その他、移築された園内の建物は、ほとんどが国の重要文化財で、中でも中央に配された三重塔は京都から、臨春閣は紀州徳川家の別邸、聴秋閣は徳川家光が京都に建てたものである。一部、寄贈された建物もあるが、ほとんどが購入したものであるという。「うなる」ほどの名建築ばかり。建物を選ぶセンスもさることながら、いったい三溪はどれくらいお金を持っていたのだろうと誰もが思わずにはいられないのである。

 さて、埼玉県の秩父銘仙を訪ねるはずであるが、なぜ横浜の三溪園なのか。そう、新緑の頃、ここ三溪園で秩父銘仙の新啓織物が参加する展示会が開催されることになり、本日はその会場を訪れたのである。横浜から京浜東北根岸線に乗り換えて山手駅か根岸駅で下車する。バスを利用するには根岸駅であるが。歩いたり、タクシーを使う場合は山手駅がお勧めで、本牧の港が見える小高い丘を越えて三溪園に向かう経路は、坂道に瀟洒な住宅が立ち並び小さな公園があって、そこから海を臨むことができる。かつて、三溪園のきわまで海が迫っていたそうであるが、今は、埋め立てられて石油コンビナートの工業地帯が広がり風情にかけるが、坂道と港、横浜らしい風景を楽しむことができる。

 三渓園の入り口に立つ。これは趣があっていい感じの入り口である。さすがだなあ、と思いつつ中に入ると、なんと五重塔だろうか、いや三重塔であることが後でわかった。それにこの塔は、室町時代の建造物で大正3年に京都の木津川市のお寺から移築されたとか。それにしても、塔を手放すことになったお寺はよほどの事であったろうにとまじまじと眺めいっていると、目の前のベンチで猫も塔を眺めていた。野良猫のようだが、やけに落ち着いた態度。この優雅な環境に溶け込んでるのだ。この猫、三渓園ではよく知られていて有名のようである。

 それにしても、この塔に惚れ込んだ原三溪(富太郎)が財力にものを言わせて大枚をはたいて買ったのだろうかと考えたが、実は違っていた。明治の神仏分離令、世に悪名高き廃仏毀釈により、寺が荒廃して塔が朽ちてしまいそうになったのを惜しんで、三溪が修理をするために購入したとのことである。その時は大変失礼な想像をしてしまったわけである。後に、台風で崩壊したこのお寺の本堂も、残された部材を集めて、ここ三渓園に移築して本堂と三重塔は横浜の地でふたたび出会うということになったという。さすが、茶人としても知られた財界人である。原三溪は、元々、青木姓であり原家の婿養子として、生業の生糸貿易で莫大な富を築いた。ユネスコ世界文化遺産の富岡製糸場も三井財閥から引き継いで経営していたとのことである。

 少しあるいていくと「日本の夏じたく」という墨文字の標識が見えてきた。ここで、毎年5月に開催されているのがこの展示会である。日本各地で手づくりでものづくりを行っている工芸作家、職人たちが集まってに日本の夏をテーマに作品展示即売するという志向である。原三溪の自邸であった「鶴翔閣」が展示のメイン会場でありなんとも優雅で贅沢な展示会である。


新啓織物と銘仙の産地

 新啓織物は2012年から、数回にわたりこの展示会に参加してきた。参加者は漆、ガラス、金工、彫金、そして染色、織物と幅が広い。「鶴翔閣」の入り口に近づいたところで、和服姿の二人ずれが坂をおりてきた。これがまた、絵に描いたように様になるのである。展示会への興味はつきない。ここで、楽しみなのは、新啓織物が銘仙のコレクションで有名な須坂クラシック美術館の古典柄の復刻を行った銘仙である。どのように展示されているのか早く見たいものであると歩みを速めた。それにしても、雰囲気のよい会場である。新啓織物が横浜まで出向いて、この展示会に参加するのかが理解できたような気がする。

 会場に入ると、雰囲気のよい空間が広がっていた。いかにも工芸作家という出で立ちの人が、自らの展示小間の前で作品の説明をしている。つど、話題になるが工芸品の作家と作品はどこまでが美術(アート)でどこまでが工芸(クラフト)なのかという疑問である。明治時代、絵画、彫刻が純粋美術であり、工芸と呼ばれる陶磁器、漆器、金工品、染織品は下位に区別されていた。大正時代には、そこに「用の美」という無名の職人が作ったもの中に美があるという民藝の思想が入り込み複雑な話になってしまったのである。工芸はある程度の量産品であり、純粋芸術のような作品ではない。はずなのだが、工芸の作家と呼ばれ人たちの作るものは、ほぼ一品生産で製品ではなく作品になってしまうのだ。ここ、日本の夏じたく展に並ぶものたちはどのような立ち位置なのか気になるところであるが、少なくと新啓織物の展示品は作品ではなく「用の美」のほうに位置するのだろうなと思う。新啓織物の小間には、新井教央さんの奥様がかいがいしく客の接待を担当して忙しそうに立ち振る舞っていた。

 思えば、初めて新井教央さんにお会いした時は、家業である機屋を継いだばかりの頃で、ご夫妻が慣れない機織機と格闘していたような記憶がよみがえってきた。もともと、商社のサラリーマンであった教央さんの実家が、埼玉県秩父市の機屋さんであり、お父さんに、秩父にもどって機屋を継ぎたいと申し出したところ「やめとけ」と言われたそうだが、商社での高給と地位をすてて故郷の秩父に奥様と共に帰ってきてしまった。子供さんもまだ小さくて、安定した生活から一転した職人としての生活は厳しいものであったはずだ。給料が半分以下になったとか。それでも、秩父銘仙という伝統的な織物を絶やさないという意気込みにあふれていた姿を思い起こすのである。実家に帰った後は、まず、家に伝わる銘仙柄の再生に取り組んだ、大ぶりで鮮やかな花柄は国の伝統工芸品サイトにも使用されているものだ。この柄が新啓織物の定番となる。

 秩父銘仙は2012年12月に、国の伝統的工芸品に認定された。関東には広い関東平野の縁に沿った日本のシルクロードとよばれる五つの織物産地があった。あったというのは過去形である。今は、この五産地すべてがシュリンクして見る影もない。北の方から足利、桐生、伊勢崎、秩父、八王子ということになる。当時、この中で唯一、秩父だけが国の伝統工芸品として認定されていなかったのである。国の伝統工芸品は100年以上の伝統が必要であるが、秩父はすでにこの要件をクリアしていたにも関わらず、なぜか国の伝統工芸品から除外されてた。というより、伝統産業としての権利がありながら自ら国に申請していなかったのである。正確にいううと申請できなかったという方が正しい。当時、産地の中で織物関係の組合が3つ存在していたため産地組合にまとまりがなくて、申請するに至らなかったのだ。

 県と市は、担当職員をはりつけてなんとか組合を一本化することに成功し、晴れて申請書を作成して2012年に経済産業省に提出することができた。その時に難航したのが、100年前の銘仙を提出しなければならないことであった。古いコレクションがあるにはあるが、100年前の明治時代のものはさすがにあまり残っていなかった。古そうなものがあっても、それが明治の年代を特定する根拠が必要ということで厳格な要件である。古い着物がいつ織られたか証拠となるものは見いだせない。困っていた時に、明治、大正期に銘仙の工場が多数あった横瀬町の郷土資料館にある収蔵品の銘仙は年代が特定できるかもしれないという知らせを聞いた。さっそく、でかけて収蔵庫にもぐりこんだ。調べること数時間、明治時代の無地、縞の銘仙はみつかったが、肝心の模様銘仙がなかなかでてこない。必死になって探していると紫の模様の銘仙が出てきた。地元の銘仙の工場に嫁に来た祖母が嫁入りに持ってきたもの。嫁に来たのは明治後期であり年代が特定できた。その他、幾つかの模様銘仙がみつかり、これで国に提出できるということで一件落着したのである。

 銘仙の技法は、大きな柄の織物を量産するために合理的な考えのもとにあみだされたもので、この技法は秩父市の坂善織物の坂本宗太郎氏が1907年に特許を取得して、秩父銘仙の産地が解織の主要産地であることを決定付けた。足利は抽象柄に特色があり、伊勢崎は緯糸にも模様を入れ込む併用絣、八王子は幾何学模様の多摩織、そして秩父は草木模様に特色があった。

 銘仙は経糸をざっくりと仮織して、そこに模様を捺染(プリント)する。この時点では、緯糸が入っていないので、経糸はバラバラのままであるが、仮織をしてあるのでプリントしてもずれない。その後、模様が付けられたまま巻き返しをして模様を整えてから本織(製織)で緯糸を入れていくという織り方になる。先染めの織物で経糸と緯機で模様を出していくには、織の組織を考えながらの作業であり、とても面倒で難しい作業である。その点、先染めの織物でありながら、並べた経糸に一気に模様を付けていく銘仙は、量産が可能で、きわめて合理的な織物であると思う。特に大きな柄は得意で、この大きな柄を経糸、緯糸で作りあげるのは超絶技巧の織技術が必要になるが銘仙はたちどころに柄をつけることが可能な織物なのである。大正時代、銘仙の登場で、明るくモダンで大きな模様の着物が普及したとき、当時のモダンな女性が、着物の柄で華やかさを競ったために銘仙は生産量が飛躍的に伸びて全国を席巻した。日本の女性は銘仙位よりファッションに目覚めたといっても過言ではないのだ。


新啓織物と須坂クラッシック美術館の銘仙

 新啓織物は、優れた柄の復刻にも取り組んでいて、青い変わり格子模様の銘仙、「日本の夏じたく展」にも出展されていた。この銘仙は、長野県須坂市にある「須坂クラッシック美術館」の収蔵品である銘仙コレクションの中から、秩父銘仙の織元ある新啓織物が新たに織り上げたものになる。須坂市は、明治から昭和にかけて生糸の町として栄えた。蔵の町並みが残る旧市街に建ある屋敷は、明治初期に呉服商であった牧新七(まき しんしち)によって建てられたものである。現在は、須坂市有形文化財に指定され平成7年8月、日本画家の岡信孝画伯からの寄贈を受けた古民芸コレクションを収蔵する「岡信孝コレクション-須坂クラシック美術館」は着物の美術館として親しまれている。

 ここにある銘仙は、画家の目を通して集められたもので、銘仙のよさがでた大正、昭和初期の名品が数多く納められていて羨ましい。秩父にもこのような秩父銘仙をコレクションする美術館がほしいものである。ちなみに次の年には須坂にあった抽象的な麻柄の銘仙も復刻されている。この銘仙は都内の六本木にある住友コレクション泉屋博古館において開催された「きものーモダニズム」展のポスター、パンフレットに使われた抽象柄の麻の葉である。大正ロマンのアール・ヌーヴォーからアール・デコへとうつりゆく中で、華やかで色彩あふれるモダンなきものが数多く作られた。このコレクション100選には、バラやチューリップなどの洋花や、アメリカンモダニズムのデザインを斬新にとりいれた名品があり、この展示会に行った着物ファンは大胆なデザインに度肝を抜かれたのである。実際にこの会場には、着物姿の40代〜50代とおぼしきご婦人方が数多く訪れていた。みな、シックな柄の落ち着いた着物姿である。お茶席やお花の席ではこのように地味ではあるが豪華(高価)な着物が好まれるため、着物好きのご婦人方は、とかく銘仙のような大柄で派手な着物を敬遠する(時には低く見る)傾向にある。たしかに、この展示会に出展された着物ではお茶席の場には無理があるかもしれないが、若い女性が着て街を歩くと華やかでいいだろうなと思わせるものがあり、むしろ、デザイン的には新しい。実際、この会場で展示された銘仙は、凄味(すごみ)さえ感ずるほどのインパクトがあって、来場者のご婦人方も、ここで銘仙を見直したと話しこんでいたのである。この展示会には秩父銘仙の製造工程を記録した映像が流されていた。そこには新啓織物の新井教央さんの作業する姿が解説されて映し出されていた。ああ、頑張っているなと、なぜか、しみじみとうれしくなってしまったのである。

 世の中には、須坂のコレクションのように銘仙を集めている人が多数いるようである。特に銘仙の産地であった足利市、伊勢崎市、秩父市にはそれなりの銘仙が残されている。つい最近であるが、「NUNO」ブランドで三宅一生、川久保怜などとも親交の深かった故新井淳一氏の実家が火事になり、作品の大半が燃えてしまったという事故があった。その時に、新井氏があずかっていた銘仙の名品もすべて消失してしまったと聞く。ここで燃えた銘仙のコレクションは須坂のコレクションに負けない質と量であり、技術的にも二度とできないような超絶技巧の銘仙も多数あったようで、まったく残念なことである。秩父にも、NHKの「美の壺」にも出演した木村和恵さんがいる。個性的なキャラクターで地元では有名人である。木村さんのコレクションは1,500枚くらいと言われている。なんとか 地元に須坂クラッシック美術館のようなコレクションを収める施設ができてほしいと思っていたが、これも、つい最近、埼玉県立博物館にかなりの枚数を寄贈してしまった。地元にあってこそ価値があると思っていたのに残念であった。また、秩父市内には「ちちぶ銘仙館」があるが、ここにも数十枚の銘仙のコレクションがある。観光に力を入れる秩父市であるが、銘仙を展示鑑賞できる公設の施設を作ってなんとか銘仙の保存に務めてほしいものである。

 秩父市の中で貴重な存在である新啓織物は、スタート時は、銘仙の中ではあまり派手な路線ではなくむしろ渋目の銘仙をめざしていた。現在は派手なモノ、より玉虫感の出る様なモノも制作して幅を広げている。銘仙の特色である、ずらしの技法で製職時に経糸をわずかに持ち上げて柄をスライドさせる手法は新啓織物が得意とするもので、着物地だけでなく、ストールなどの商品も製造している。この、ずらしの技法から生まれたのが月の満ち欠けの柄である。細かい月の柄が満月から新月まで並んでいてシックな織物として開発された。最近の新啓織物の新境地であり粋な着物として評判になった。日本人の着物離れが進んでしまった中で、着物地を一反売るのは大変なことである。サザエさんの磯野家のように、お父さんが仕事から帰ってきて、普段着の着物に着替え、お母さんが着物で割烹着をきて炊事をするような家庭というのはアニメの世界で、ほとんど現実的ではありえないことになってしまった。このままでは、伝統的な織物の産地は、ほどなく、すべて消滅してしまうかもしれない。実際、秩父では分業化されてきた作業工程の一部がすでに消滅してしまい、群馬の桐生に出したり山形に出したりしている。全国的にこのような状況が続いているために、全国レベルで織物の作業工程のデェリバリーを調整する仕組みが必要になるのではないか。いずれにしても、この状況で利益を上げて事業を継続しなければ明日はない。新啓織物。なんとか持ちこたえて秩父銘仙の技術を未来に残していってほしいと願うばかりである。

ー(影山)

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